昭和の企業風土が悪いのか?
近年、大企業が記者会見をして、社長や役員さんたちが横並びになり、深々と頭を下げ謝罪する映像をよく見かけます。
ちょっと前は、粉飾決算したり品質検査の不正、自動車の性能検査の不正などといった、経営の根幹に関わる問題が明るみになり報道される、ということが多かったように思います。
こうしたニュースを見るたびに、「自分がその会社を経営していたら」とか「その会社の社員だったら」と想像し、記者会見ではどんな対応が必要だろうか、社内で顕在化したときにはどうか、問題の実行がされている場面に出くわしたら、など様々な場面を思い浮かべ、「上司に言えただろうか」「上司を飛び越え内部告発的なことはできただろうか」「退職を覚悟できただろうか」いろいろな選択肢をイメージしては自分がその立場だったらと苦しくなっていたのを思い出します。
これらの場面ではよく「企業風土」が問題視されます。
謝罪会見に見る企業風土
株価が下がらないように決算を良く見せよう、検査問題なしと書いておけば買ってくれる、性能が変わるわけではないから、と現場で判断をするものがいたり、経営的な判断をしてそのような指示を出したり、まさに経営陣から現場まで、消費者やその他ステークホルダーを見下した判断ができてしまう環境、それをしなければならない環境、そのような会社が問題のある「企業風土」を抱えて事業を行っている、ということでしょう。
このような環境下では、問題のある判断をした者、問題を実行している者、それぞれおおよそ自分が悪いことをしていると自覚をしていることが多いのではないでしょうか。
前述の問題はすべてルール違反あるいは法に触れる行為となり、やっていれば処分されたり、ひどい場合は捕まります。それがわかっているから見つからないように隠そうとして余計に悪い方向に向かっていくことになり、問題がどんどん大きくなって最終的に記者会見、という流れでしょうか。
問われているのは「人として」
一方で、最近の記者会見、謝罪会見は、かなり変わってきているように思います。
社長や役員が数名横並びで謝罪するということは変わりませんが、問題の起こし方とそれがよいか悪いかの認識に大きなズレがあるのではないか、ということです。
問題の内容がパワハラやセクハラなど、違法行為であるのかどうか不明確であり、そういう法に触れる行為をしたんじゃないのか!?っていう追求というより、罪名はつかないかもしれないけど、「人として」問題があるのではないのか?相手の「心」を傷つけたかどうか、相手の「心」を軽視していないか、という倫理的な部分に問題の焦点は移ってきています。
示談が成立していればOK、物理的に危害を加えていないから罪にならない、金銭的な問題に対して返したから揉め事自体帳消しになる、というようなことはないということです。
企業風土により発生する問題
パワハラやセクハラなどが問題になっているケースではよく、「時代遅れの考え方」「昭和の経営体質」などのような言葉が出てきます。
「あの時代は問題にならなかったのに、」のような、あたかも昔はそれが正しかったかのように言い、それを武勇伝のように語る人も多くいました。
しかし、昔はパワハラやセクハラといった言葉がなかっただけで、同じようなことが起こっていたはずです。それが正しいと思い武勇伝のように語れる人がいるということは、今よりひどいことが起こっていたかもしれません。
昔はよかった、若いころは楽しかったのかもしれませんが、今も昔もパワハラやセクハラは問題です。この問題で困っている人がいたことにも気付かず昔はよかったと言っているとしたら、「人として問題」があるのではないでしょうか。
「あの時代は問題にならなかったのに、」という言葉は、そのようなことが行われ苦しんだ人がいたことをなかったかのように言っているように思い、腹立たしさしかありません。
話が大きくなり過ぎましたが、生産現場に目線を落とすと、例えば「品質検査の不正」「自動車の性能検査の不正」について、
仕事中、なんらかのプレッシャーを受けていたとして、早く検査を終わらせなければいけないという状況だった時、
「1回くらい検査をごまかしてもわからないだろう」
「これくらいの数値の誤差なら出荷されてもわからないだろう」
などのような発想になってしまうかもしれません。
特に今は、人の確保が難しい環境です。今まで人と時間をかけてやることができていた作業を少ない人数で、しかも残業規制がある中でやらなければいけません。
現場が楽をしようとか手を抜こうとしたわけではなく、手が回らない状況で、でも「やったことにしておかなければいけない」という発想になってしまうということは、業種や職種に限らずどんな場面でも出くわすかもしれないことです。
増員したり設備を更新したりして同じ仕事ができるようにすることも必要ですが、仕事の仕方や検査の仕組みが変わらなければ、またいつだれが同じことをやってしまうかわかりません。
誰かがそのようなことをしてしまうかもしれない、人の能力や意識に頼ることベースに作られた仕組みだからです。
誰もいない更衣室に10000円札を置いておいたら、「何ごともなかったかのように触らずそのままにしておく人」「回収して警察に届ける人」「黙って自分のポケットに入れる人」、、、いろいろな人がいます。そのような状況と同じです。
「企業風土」という漠然としたものに対する対策
「1回くらい検査をごまかす」のではなく、検査の周期を伸ばすことはできないか?という発想で、生産工程の追求をして検査回数を減らすことはできないでしょうか?
誤差範囲であるなら、公差を見直したり検査方法を見直すなどして、人が少なくても対応でき品質も保証できる検査方法はないでしょうか?
このようなことを考えられる環境を作ることができるのは、経営陣です。
無理な仕事をさせる環境を放置すれば、だれが仕事をしてもミスが出る環境です。
企業風土に問題があるとは、問題行動を起こすような社員がいることを容認したり、その社員により起こされた問題に目をつむったりする。という状況があることでしょうか。
工場自動化経営では、会社のルールの整備や業務のIT化などにより、社長がいなくても現場が回る仕組みを構築します。その仕組みの中で社員が自主的に業務に取り組むことができるようになります。しかし、前述のような問題のある企業風土であれば、社員が自主的に動くこともはばかられるような職場環境であり、これを改善することは工場自動化経営では必須の取り組みです。
現在就職内定が決まっている学生が、4月からの仕事を期待半分、不安半分で待っています。
その人たちの期待を裏切るような会社にならないよう、経営陣をはじめ既存社員が、人として正しい仕事ができるようになっている必要があるのではないでしょうか。
「昔はこれでよかった」とは絶対に言わないでください。若者たちには関係ありませんから。
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