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「信託」活用コンサルタント

株式会社日本トラストコンサルティング

代表取締役 

オーナー社長を対象に、「信託」を活用した事業承継や財産保全、さまざまな金融的打ち手を指南する専門家。経営的な意向と社長個人の意向をくみ取り、信託ならではの手法を駆使して安心と安全の体制をさずけてくれる…と定評。

2024年2月22日の日経平均株価の終値が最高値を更新しました。
34年振りということですので、感慨深いものがあります。
ただ、日経平均株価の上昇が、非上場の同族会社のオーナーの相続税を増やす可能性があることにも注意が必要ですね。

いつの時代も「上手に財産を承継するにはどうすれば良いか」というテーマは変わりません。
「光る君へ」を見ながら、改めて考えてみました。

◾️藤原道長の希望

前回のコラムで藤原道長は処分状(遺言書)を残さなかったので、嫡男の頼通を中心に遺産分割協議をしたと書きました。

ただ、藤原道長は自分の財産をこのように分けて欲しいという遺言(書面にしていないが、話していた)はあったようです。

藤原道長の希望として主なものは次のとおりです。

①主な財産は正妻の倫子に承継するが、倫子が亡くなったら法成寺に処分する

②残りの財産は法成寺へ処分する

①のポイントは倫子が生存中だけ所有ができた、という点です。これを一期相続といいます。

道長の財産が倫子に渡り、そのまま倫子の一族に財産が移転しないための対応策です。この時代の夫婦は別姓ですし、財産も別管理です。

そもそも一夫多妻妾制ですから誰のものか分けておかないと、色々な財産がまじって大混乱になってしまいます。

そもそも、男性が女性の家に通う実家から受け取った財産は別管理ということになります。

ちなみに、一夫多妻妾制とは読んで字の如く「多妻」ですので、複数の妻がいる状態です。

藤原道長には、正妻に源倫子(道長より2歳年上)がいて、次妻に源明子​​(同じく1歳年上)がいます(さらに6~7人の妾)。​​

正妻の源倫子の子が妻としての権限を持ち、その子供達(2男4女)が正式な跡取りとして順調に出世します。次妻の源明子の子達(4男2女)も公卿として出世していきますが、正妻と格差をつけられていました。

なお、摂政・関白の正妻を「北政所」と称するようになったのは11世紀の中頃からだそうです。

ちなみに、一夫一妻多妾制が明確になったのは1615年の武家諸法度のようですね。大名の婚姻が将軍の許可制になってからとする見解があります。

となりますと、豊臣秀吉(徳川時代の前)の場合は、正妻である高台院が「北政所」となり、側室である淀君は「次妻」「別妻」という位置付けになりそうです。

今では、太閤といえば豊臣秀吉、北政所といえば高台院。しかし、そもそも太閤の意味するところは摂政または太政大臣の尊敬語、後になって、関白を辞してなお内覧の宣旨をこうむった人、または関白の位をその子に譲った人のことになりました。

話が脱線しましたが、財産管理の話です。

この一期分という相続の方法を、現代の法律で実行しようとするとハードルがいくつかあります。出来ないわけではないけれども、乗り越えなければならないハードルがある、ということになります。

◾️家の運営

この時代の貴族は官職の維持、財産管理のための家政機関を持つようになります。この家政機関には家司(けいし)や従者、女房などが働いており、一つの会社のようなものでした。

公家では家司とよばれますが、武家では家宰となり、後に家老とよばれるようになります。例えば、扇谷上杉家の主君は上杉定正で、家宰が太田道灌になります。​​

三位以上の公卿が運営する家政機関、すなわち「家政を司(つかさど)る所」のことを「政所」といいます。

平安時代の貴族の家は「寝殿造」とよばれる邸宅でした。この「寝殿」は半ば公の場所でもあったため、寝殿の北側に私的な居住棟である「北対(きたのつい)」がおかれます。

そこでは三位以上の公卿の正室である「北方(きたのかた)」が家政の諸事万端を決裁していました。

この「北方(きたのかた)」と「政所」を組み合わせると「北政所」の完成です。

このころ、正室が実権を持ち地位が高かった理由は、当時の貴族は基本的に婿取婚だったため、その邸宅はそもそも正室の実家が所有するものだったためです。

藤原道長は源倫子と土御門殿(つちみかどどの)に同居していました。この邸宅は倫子の母から譲り受けたものです。ここに藤原道長の政所と、源倫子の政所が別々に設けられていました。

次妻の源明子のところには通い婚でした。明子が住む高松殿(たかまつどの)は、父親である源高明(みなもとのたかあきら)から譲り受けています。

明子の政所も高松殿に設けられていました。なお、この高松殿は歴史の中に何度となく登場します。

院政期には白河上皇、鳥羽上皇が院御所となりました。後の「保元の乱(ほうげんのらん)」では、平清盛、源義朝らが後白河天皇方の兵力を高松殿に集めてから、崇徳上皇方を攻撃しました。

この「保元の乱」も一種の相続争いですね。なお、邸内に祀られていた鎮守社高松明神は、現在も高松神明神社として残っています。

◾️まとめ

藤原道長の財産は最終的に法成寺に集まります。財産をお寺に集中しますと、後は相続が発生しませんので、財産の分散は防げます。

法成寺を監督するのは藤氏長者である一門の家長です。法成寺は一門の財産を集中するだけではなく、祖先祭祀、精神的支柱としての役割を持たせたことになります。

嫡子単独相続という相続ルールが確立していくのは、ここから更に数百年という時間が必要になりますが、その原点ともいいうべき財産管理を始めたのは藤原氏(家)だと思うのです。

なお、藤原道長が没後に埋葬されたのは浄妙寺という別のお寺でした。正妻の源倫子は氏が異なりますので、源氏一門のお寺に埋葬されます。

元気な時には何もせず、いざとなったら何もできないという事態が起こりがちなのが相続対策です。

未来に思いを馳せながら、一度じっくりと考えてみては如何でしょうか?

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