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専門コラム「指揮官の決断」 No.030 危機管理:危機を機会に

SPECIAL

クライシスマネジメント(想定外の危機への対応)コンサルタント

株式会社イージスクライシスマネジメント

代表取締役 

経営陣、指導者向けに、クライシスマネジメント(想定外の危機への対応)を指導する専門家。海上自衛隊において防衛政策の立案や司令部幕僚、部隊指揮官として部隊運用の実務に携わる。2011年海将補で退職。直後より、海上自衛隊が持つ「図上演習」などのノウハウの指導依頼を受け、民間企業における危機管理手法の研究に着手、イージスクライシスマネジメントシステムの体系化を行い、多くの企業に指導、提供している。

私は危機管理専門のコンサルタントとして、危機を機会に転じて事業を躍進させることのできる体質に変えていくお手伝いをしています。本当に強い軍隊が敵の奇襲を受けてもこれを跳ね返し、返す刀で退却する敵を殲滅してしまうように、日ごろからそのような危機に強い体質を作り上げておくということが最も大切と考えているからです。

危機を機会に転じた実例は数限りなくあります。ここでその一つをご紹介します。

大阪にオオサカ・シオン・ウィンド・オーケストラ(旧:大阪市音楽団)という交響吹奏楽団があります。大阪市の吹奏楽団として、全国でも珍しい自治体が経営する吹奏楽団だったのですが、最近、橋下市長の行政改革のため市から切り離されて社団法人となりました。

これまで団員は大阪市の職員という身分で、演奏活動はもちろん、市内の公立中・高等学校の吹奏楽部への演奏指導などの業務に就いていました。初夏から夏の終わりまで、大阪城公園にある野外音楽堂で入場料無料の「たそがれコンサート」を開き、学生の吹奏楽部や警察、自衛隊の音楽隊などのプロをゲストに招いた吹奏楽のコンサートは大阪の夏の風物詩として市民に親しまれてきました。

つまり、団員は公務員だったので、採算ベースをあまり考えず、自分たちの芸術性の追求と吹奏楽の普及に力を注いできたといえます。ところが、社団法人化されたため、自分たちの食い扶持は自分たちで稼がなくてはならなくなり、大変な思いをしています。ある意味で存続の危機に立たされていると言えます。

このオオサカ・シオン・ウィンド・オーケストラは実に90年の歴史を持っています。もとは大阪を本拠地として編成されていた陸軍第4師団軍楽隊を母体としています。

第4師団軍楽隊は陸軍軍楽隊の中でも実力のある軍楽隊であり、シベリア出兵の際にも派遣軍楽隊として動員され、長期間にわたり大陸で演奏活動を行っていました。
 この派遣軍楽隊を率いていた陸軍の軍楽隊士林亘(はやし わたる)は、陸軍がヨーロッパに送った軍楽隊留学生の一員で、イギリスでクラリネットを勉強して帰ってきた人物であり、当時の日本のクラリネット奏者としてはトップクラスの演奏者だったと言われます。

林亘は、このイギリス留学中に見た地方都市の週末の夕方、大きな公園にあるパーゴラで楽団が演奏しているのを市民が取り囲んで音楽を楽しんでいる光景が忘れられなかったようです。

帰国した林亘は第4師団軍楽隊で極力野外演奏を行いました。もともと軍楽隊はマーチングバンドとして屋外での演奏活動は珍しくないのですが、それを市民が直接見ることができるのは特別な場合に限られていました。
 林亘は、軍楽隊の練習を天王寺公園に出て行って行い、それを市民に見せるというような工夫をして、市民が吹奏楽に親しめるよういろいろな手を打っていたようです。このため、第4師団軍楽隊は市民に親しまれる軍楽隊として名を知られるようになっていました。

第1次大戦後、世界的な軍縮の波があり、日本も例外ではなく、陸軍の軍縮政策の中で、各師団が持っていた軍楽隊の整理統合が図られました。
 林亘は中央の指示で、第4師団軍楽隊を解散して、陸軍の中央軍楽隊であった陸軍外山学校軍楽隊へ出てくるように言われたのですが、もともと親分肌であったためか、職を失う軍楽隊員の今後を考え、また、同時に市民の中から軍楽隊存続を望む声などが出てきたこともあり、自分も陸軍を退職する決意を固め、元軍楽隊員を取りまとめ、大阪市と第4師団に掛け合い、双方から一定の支援をしてもらい大阪市音楽隊という、いわば第三セクターの吹奏楽団を発足させました。

発足直後の大阪市音楽隊は経営困難な状態が続き、お金持ちの結婚式で演奏するなど相当な苦労を重ねたといいますが、市民に親しまれる活動を続けた結果、大阪市が全面的に支援することとなり、市に所属する日本初の自治体オーケストラとなり、名称も大阪市音楽団と改まりました。

この大阪市音楽団には、ブルックナーのシンフォニーに関して世界的な権威であった朝比奈隆氏やNHK交響楽団の常任指揮者を長く務めた森正氏などが、団員ではなかったものの、学生時代に頻繁に出入りして林亘の指導を受けるなど大きな影響を受けています。

林亘が野外演奏にこだわったため、大阪市は天王寺公園に野外音楽堂を建設し、昭和50年代まで週末の入場料無料の「たそがれコンサート」が開催されていました。老朽化に伴い現在の大阪城公園に移り、ここも初心を忘れず野外音楽堂となり「たそがれコンサート」は続きました。

なぜこの大阪市音楽団が危機を機会に変えた例と言えるのでしょうか。

陸軍が軍縮で第4師団軍楽隊の解散を決定したことは軍楽隊員にとって文字通り生計を危うくする危機でした。大阪市民にとっても楽しみにしている吹奏楽の生演奏が聴けなくなってしまう由々しき事態でした。
 そこで林亘は陸軍を離れて独立することを決意します。彼の夢は吹奏楽を通じて市民が気軽にクラシック音楽を楽しめるようにすることでしたので、その理想を求めた選択でした。

その結果、当初経営難に苦しみますが、市民の支持を得たため、大阪市の全面的な支援を受けて市の組織に組み込まれることになります。これがその後に彼らを襲った本当の危機から彼らを救うことになりました。
 つまり、太平洋戦争の敗戦後も大阪市音楽団として存続することができたのです。

もし陸軍軍楽隊のままであったならば、敗戦による陸軍の解体で軍楽隊もなくなってしまったはずです。
 総員が復員してしまい、戦後の混乱期に新たな音楽団を市に作るなどという発想ができるわけもなく、大阪に吹奏楽団が残るということは無かったはずです。

林亘に危機を機会に変えるという考え方があったとは思われません。団員を食べさせていくために必死だったはずです。
 ただ、軍楽隊が解散されるまでに市民に親しまれる活動をしっかりしていたことが市民から存続を望まれる結果を生み、それが敗戦によって軍隊が解散されても生き残ることができる大阪市音楽団を誕生させていたのです。

私は危機管理はそもそも危機に陥りにくい体質を作ることから始めるべきであると主張していますが、まさにその典型例です。ステークホルダーからの厚い信頼を得ていたこと、多くの支持者を得ていたことがその存続を可能としたのです。
 危機管理は大きな組織が専門の部門を設置して行わなければならないものではなく、どのような組織であってもできるものです。そしてそれは、それが危機管理に関する業務であると直接認識されるようなものでもなく、何気ない日常の小さなことを積み重ねていくことによりなされるものなのです。

林亘がやってきたことがそれを証明しています。彼はただ市民に愛される音楽団を目指していただけなのですが、それが母体である陸軍が無くなってしまった後にも存続できる吹奏楽団を作ったのです。

オオサカ・シオン・ウィンド・オーケストラは今新たな試練を迎えています。市営の音楽団だったのが社団法人となり、独立採算を余儀なくされています。しかし、この危機を機会に変えることができれば、大きな発展のチャンスです。なぜなら、これまでは大阪市営の音楽団であり、楽団員も市の職員であったことから、その活動には自ずから一定の枠がありました。団員の処遇も市の規定によって定まっていました。
 しかし、その制約がなくなり、様々な可能性にチャレンジすることができるようになったはずです。まさに危機を機会に変える絶好の時期でもあります。

彼らの先人たちが90年前に決断した結果70年前のあの敗戦を乗り越えることができたことに思いを致し、新たな音楽団として飛躍して行ってくれることを願っています。
 彼らが彼らの危機を見事に機会に変えてくれれば、多くの人々に勇気を与えられると信じています。

ちなみに、林亘は私の祖父であり、私が生まれる前に没しておりますので会ったことはありませんが、彼が夢見た事業が90年後も脈々と受け継がれていることに感謝する一方、困難に直面している現在、危機管理のコンサルタントとしても何とか応援していきたいと思っています。

オオサカ・シオン・ウィンド・オーケストラウェブサイトはこちら
 http://shion.jp/

 YouTube動画はこちら
 https://www.youtube.com/watch?v=hLcjqOPf1d0

 

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